アニサキス症

優森繁久弥さんが名古屋御園座で公演中急に発病し、開腹手術を受けられたことでこの病気もすっかり有名となりましたが、昔か
ら海産魚類を加熱せずに生食することを極めて好む我々日本人は、先祖代々より伝えられた「生きのよい魚にあたった」とか「鯖の生きぐされ」などの言い伝えからもわかる様に、いくら鮮度が良くても海産魚類を「さしみ」「酢の物」「お寿司」「たたき」などの料理で生食すれば、時には急性胃腸炎様の或いは食中毒様の腹部症状を起こすことを経験的に知って居りました。


にはヒト回虫症(今では極めて稀となりましたが)、犬にはイヌ回虫症、猫にはネコ回虫症等がある様に、元来アニサキスはイルカなどの歯鯨類やアザラシやトドな
どの鰭脚類の胃などに寄生して居る回虫の仲間なのです。産卵されたアニサキスの卵は海水中で孵化して幼虫となり、オキアミなどの海産甲殻類(第一次中間宿主)に捕食されその体内に移ります。オキアミは更にイカ又は直接海水魚類(第二次中間宿主)に捕食されることにより、アニサキス幼虫はそれらの体内に移って成育して行きます。食物連鎖として最終的にはイカや海水魚がイルカやアラザシ(最終宿主)に食べられることによって、アニサキス幼虫はやっと終宿主にたどりつき成虫(親虫)となります。


や海水魚類の体内にどの位アニサキス幼虫が居るか(アニサキス幼虫の感染率)は、それらを漁獲した海域・年度・月別・魚体年齢などによってずいぶん違いま
すが、日本周辺では200種以上の魚種から発見されていますから、生魚を見ればアニサキス幼虫が居るかもしれないと疑ってかからねばならないのも仕方ないことかもしれません。また生魚を 酢・塩・味噌・醤油・酒・食用油・スパイスなどで調理した程度ではアニサキス幼虫は全く死滅しないのも困ったことです。充分の加熱(焼く・煮る・蒸す・揚げる)と強い冷凍(−50℃以下・24時間以上)だけが有効な方法といわれて居ります。


魚肉を介して、ヒトの胃の中に入ったアニサキス幼虫にとってヒトの体内はすみ心地の良い環境(好適宿主)でないため親虫にまで発育するこはありませんが、幼虫が
その頭部をヒト胃や腸の粘膜に突き刺す(刺入する)ことからいろいろな臨床症状をひき起こすことになります。


から経験的にはよく知られてきたのですが、この病気が学問的にとりあげられたのは比較的新しくわが国では1940年塩田博士が、1960年オランダではファン・チール
が、いずれも急性腹部症状患者の切除した小腸より回虫様の幼虫をみつけ学術報告したのが始めとされて居ます。チール氏はこの虫がニシンに寄生するアニサキス幼虫であることに気付き、この病気をアニサキス症と名付けました。その後もいろいろな胃腸疾患で手術された切除標本の中や手術時の虫体発見から数多く経験されては来ましたが、寄生虫学的研究も不充分のままヒト回虫の幼虫または不明の虫体としてとりあつかわれてまいりました。所が海産魚類を生食した後で起きた急性胃炎様患者さんの胃壁に刺入している、アニサキス属T型幼虫を1970年に並木教授らが、同じくプソイドテラノーバ属A型幼虫を1972年私どもが、それぞれ生きたまま内視鏡的に摘出することに世界で始めて成功しました。それ以降、北海道Z中心に同様の経験は著しく増え、研究も長足の進歩を遂げ全日本・全世界を啓蒙して行きました。


床医学的には、胃アニサキス症・腸アニサキス症・異所性アニサキス症の三ッに分けられますが、最も多いのが急性胃アニサキス症です。幼虫が胃の粘膜に刺さるこ
とによって引き起され、生食後数時間以内に突然の激しい上腹部痛や悪心・嘔吐などの症
状で発症します。治療は刺入している幼虫を内視鏡的に抜去し摘出することで、劇的に症状が消失いたします。胃にくらべて急性腸アニサキス症はずっと少ないのですが、幼虫が小腸粘膜に刺入するとその周囲の粘膜は強く腫れ上がるため小腸の内腔は極端に狭くなって(腸管狭窄)、ひどい場合には閉塞してしまい(イレウス症状)激しい症状を示すこともあります。なかなか診断は困難なのですが絶食と補液による保存的治療を行い、開腹手術はさけるべきとされて居ります。森繁さんの場合、夜食の鯖の押し寿司(ばってら)が原因食だったそうです。


産魚類を絶対生食しないヨーロッパにあって唯一の例外はオランダで、オランダの人は塩蔵した生ニシンを黒パンにのせて食べるのが大好きなため、昔からニシンの
時期になるとたくさんのアニサキス症が発生していたのだそうです。そこで衛生当局はニシンを出荷する際に−20℃で24時間以上冷凍することを法律で義務付けて以来この病気の発生はほとんどなくなったそうです。最近の研究では魚種によってはもっと強い低温とより長時間が必要とされる上、縄文の昔から鮮度の良い多種多様の海産魚類の生食を好む習慣あるの我が国ではすべてに実行するのはなかなか難しい問題の様です。しかし現行のコールド・チエーン・システムでは長時間の−50℃以下の強冷凍が行なわれているそうですので、アニサキス幼虫の殺滅には予想外ながら大いに役立っているといえましょう。


コラム・長野一雄

制作・著作 有限会社みのり